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土と海を捨てた男の、覚悟。

はじめに

本稿は、「土」を耕す農家から、「海」に潜る海女(あまちゃん)
候補へ、そして「街」を支える公務員へと、人生の舵を何度も切り
直した一人の男性、ひろしさんの物語です。
彼はなぜ、先祖代々受け継いだ土地を「捨て」、一攫千金の誘惑を
「断ち」切ったのか。その裏には、父の病、義兄の忠告、そして
恩師の熱意といった、人生を決定づけた「言葉」がありました。
さあ、ひろしさんの人生の軌跡を辿りましょう。

人物

自画像

田舎町の港で生まれ育った長男。
農業、海女、そして公務員。
三つの選択肢の間で揺れ動いた人生。
誰かの「言葉」に導かれ、自らの「覚悟」で道を切り拓いた。
劣等生から、地元を支える「究極のサービス業」の担い手へ。

1964

―――今回はお時間を取っていただきありがとうございます。
今日はひろしさんの人生の転機について、詳しく聞いていきたいと思います。
早速ですがひろしさんの人生の流れを大まかに説明してもらってもいいですか。―――
よろしくお願いします。私は、田舎の町で生まれ育ちまして、
小学校、中学校と、ずっと他の学校と交わることのない、
閉じたコミュニティの中で過ごしました。そして、普通高校を卒業すると同時に、
実家である専業農家を継ぐ形で地元で頑張ってきました。
そこで六年間働いた後、ちょっとしたいろいろな事情がありまして、
市役所に勤めることになり、それが現在まで続いています。

父との葛藤

―――専業農家をやっていらっしゃったんですね。
専業農家になることはいつ頃から決まっていたんですか。―――
そうですね。自分の家は集落の中でも比較的大きな農家でした。
父も農業に対して並々ならぬ熱意を持っており、
その影響を私も強く受けていました。
実は、農家を継ぐか継がないかという話は、
中学二、三年生の頃から父との間で何度も話し合われ、
揉めたこともありました。結果的には継ぐことになったのですが。
―――中学生の頃、どのようなことで揉めたんですか。―――
父は私に農業を継がせるために、私が働きやすいようにと、
農地を集積したり、様々な準備をしたりしてくれていました。
その努力や熱意は子供心に感じていました。
ただ、自分で言うのもなんですが、中学時代はあまり勉強しなくても
成績はかなり良い方でして。だから、自分には農業以外の可能性も
大いにあるのではないか、という自負がありました。
そのため、中学2、3年の頃は、農業を継ぐことに対して
かなり強く父に反発しました。何度も言い争いになりましたね。
葛藤
―――それでも最終的には農業を継ぐと決心された。
決め手は何だったのでしょうか。―――
最後は、父の熱意に根負けした形です。
「俺は、代々受け継がれてきたこの農業を、
お前に最高の形で継がせるために、
昼間は仕事をし、夜は農地集積のために他人と交渉し、
人生を捧げてきたんだ」と、
その想いをとくとくと聞かされて。それを聞いているうちに、
先祖代々守ってきたこの土地を自分の代で絶やすわけにはいかない、
という気持ちが芽生え、最後は自分が折れました。「わかった、農業は継ぐ。
ただ、高校だけは好きなところに行かせてくれ」と。

1980

喧嘩上等、荒れた高校生活

―――噂程度ですが、かなり高校時代荒れていたと(笑)―――
そうですね(笑)県内トップの進学校に入学しました。
ただ、卒業後は農業を継ぐことが決まっていたので、
全く勉強に身が入りませんでした。野球部だったので、
3年生の夏の大会が終わるまでは打ち込むものが
あって良かったのですが、
引退してからは本当にやることがなくて。
授業を途中で抜け出したり、
かなりクラスの雰囲気を乱すような行動をとってしまい、
今思えば、同級生と、特にある先生には
本当に迷惑をかけたなと反省しています。
―――ある先生?―――
はい、恩師と呼べる先生がいます。私がどれだけ劣等生で、
周りに迷惑をかけても、その先生だけは
真剣に向き合ってくれました。
進路が決まっている私に対しても、進学相談に乗ってくれたり、
「進路の集会には必ず来い」と熱心に声をかけてくれたり。
恥ずかしい話ですが、一度、職員室で大勢の先生が見ている前で、
本気で私を思って殴られたことがあります。
その時、腹が立ったというよりも、
ここまで自分のことを真剣に考えてくれる大人がいるんだ、
と殴られながらも嬉しい気持ちになったのを覚えています。
結局、先生の期待に応えることはできませんでしたが、
その熱意には今でも感謝しています。

1988

辞める勇気

―――高校卒業後、農業に6年間従事したとおっしゃっていましたが、
なんで、辞めたんですか。―――
高校を卒業して6年間、農業に従事したのですが、
私が就農して間もない頃から、一家の大黒柱である
父が病気を患いまして。
私が農業をやった6年間のうち、最後の2年間は、
父がほとんど仕事ができない状態になってしまいました。
結果として、私と母親の二人だけで、広大な農地を管理し、
すべての農作業をこなさなければならなくなったのです。
私自身も大変でしたが、それ以上に母親の
苦労は計り知れないものでした。
その姿を見かねた父が、「もう農業には見切りをつけろ。
サラリーマンになるなり、何か他の道を探しなさい」
と言ってくれたのです。
それがきっかけで、農業以外の職業を探し始めました。
―――農業を「辞める」という決断は決して簡単な
ものではなかったはずです。 何か思うことはありましたか。―――
当時は、もし農業を続けて結婚したら、お嫁さんには相当な苦労を
かけるだろうという思いが強くありました。
だから、農業を続けるという選択肢は、あの時点では
自分の中にはありませんでした。ただ、同時に、
先祖代々続いてきた農家を
自分の代で変えてしまったことに対しては、
病気になった父はもちろん、
ご先祖様や、周りで一緒に農業を頑張っている仲間に対して、
申し訳なかったなという気持ちは今でもあります。
もっと重労働でなくても、 何かうまいやり方があったのではないか、
別の道はなかったのか、 と今にして思うことはありますね。

1999

海女への誘惑

―――農業以外の職業として挙げられた候補は何だったのですか。―――

私の住む集落には、海に潜ってウニやアワビを獲る「海女さん」
を 生業としている人が数人いましてね。
彼らはそれでかなりの収入を得ていました。
父とも交流のある知り合いだったので、その方から
「うちで弟子のような形で練習して、一緒に仕事をしないか」
と誘われたのです。
当時、景気の良い話では一晩で数十万円稼げる
という話も耳にしましたから、
それは魅力的に聞こえました。それで、一旦は「海女さん」
になることを決意したんです。

海女さん

あわや犯罪者、運命の忠告

―――1度は決意されたのですね。
ですが、結果的には市役所で働かれることになった。
どうして「海女さん」になることを辞められたのでしょうか。―――

私も当時は深く考えていなかったのですが、
実は私の義理の兄、つまり姉の夫が
海上保安庁の職員なんです。彼らの仕事は、ご存知の通り、
密漁などを取り締まる海の警察官です。私が「海女さん」になる
という話を聞きつけた義兄が、ある日、家に乗り込んできまして。
「お前がそんなことをしたら、俺が俺自身の手で、
義理の弟を俺自身の手で捕まえるようなことはしたくない」と、
ものすごい剣幕で説得されたのです。
そこで初めて、事の重大さに気づきました。
よくよく考えてみれば、父の友人の「海女さん」の中にも、
過去に警察のお世話になった方がいたという話も聞きましたし、
やはり法を犯してまで生きていくのは自分の望む人生ではないなと。
そこで、その道はきっぱりと諦めました。

―――危うく"犯罪者"になるところだったと。
義理のお兄様の一言が、大きな転機になったのですね。―――

まさにそうです。本当に"運命の忠告"でした。

2000

覚悟の一ヶ月

―――その後なぜ市役所を目指したのですか。―――
どうしたものかと途方に暮れていた時、その義兄が
「市役所が職員の採用試験を実施するらしいぞ」
という情報をくれたのです。
それで、公務員試験に挑戦してみようと決心し、
幸運にもなんとか合格することができた、という流れです。
―――市役所に勤めるとなると、筆記試験や面接など、
簡単な道のりではなかったと思います。
特に、しばらく勉学から離れていたとのことですが、
公務員になるまでに、どのような努力をしましたか。―――
はい、おっしゃる通り、まずは筆記試験という大きな壁がありました。
高校時代は全く勉強していなかったので、とにかくがむしゃらに
やるしかありませんでした。ここでも助けてくれたのが、また義兄でして。
彼も1年前に転職で国家公務員試験を受けて
海上保安庁に入った経験があったので、
「俺はこの問題集をやって合格した。とにかくこれを繰り返しやれ」と、
20冊ほどの問題集をどさっと持ってきてくれたんです。
―――20冊ですか!勉強期間はどれくらい あったのですか。―――
もう記憶も朧げですが、義兄から試験の話を聞いたのが
確か8月の末あたりだったと思います。そして、試験本番が10月の初旬でした。
勉強
―――ということは、1ヶ月ちょっとしか時間がなかったのですね。―――
そうなんです。本当に時間がありませんでした。
中学・高校時代、特に高校に入学してからは、ほとんど机に向かった記憶が
なかったのですが、この時ばかりは「もう後がない」という一心で、
試験までの約1ヶ月間、ほとんど外に出ることもなく、
毎日朝から晩まで机にかじりついて勉強しました。
人生であれほど集中して勉強したのは、後にも先にもあの時だけです。

2005

究極のサービス業、その誇り

―――見事試験に合格して、現在まで市役所で働いていていると思いますが、
その中で「市役所で働けて良かったな」と思うのはどのような時ですか。―――
そうですね。家族に、農業のような肉体的な負担を強いることなく、
生まれ育った地元で、親の面倒を見ながら、共に暮らせる。
これは何物にも代えがたい幸せです。そして、市役所の仕事は、
"究極のサービス業"だと私は思っています。住民の最前線に立ち、
自分たちの働きで地元が良い方向に向かっていくのを実感できる。
頑張れば住民の方々に喜んでもらえ、それが自分の生活にも繋がっていく。
そういった意味で、非常にやりがいのある、良い仕事だなと心から思っています。

妻との出会い

妻と出会えたことも市役所で働いてよかったことですね。
―――奥様と市役所で出会われたのですね―――
はい、妻との出会いは市役所でした。妻の方が1年先輩になります。
私が税務課、妻が市民課で、同じ1階のフロアで働いていたので、
よく見かける関係ではありました。私が一方的に、ですが(笑)。
ある時、自分の職場の前の廊下を妻が歩いて通り過ぎていったのですが、
その歩く姿がとても綺麗で、涼やかで。その姿が目に焼き付いて、
第一印象から強く惹かれました。そこから、もっと彼女のことを知りたいな、
と気になり始めたのがきっかけです。

人生

―――その後3人の子供も家族に迎え入れることになったと思います。
僕にとっていとこでもある3人はとても優しく、
家族5人本当に仲が良さそうに見えます。人生を振り返ってみてどうですか。―――
そうですね。本当に色々なことが起きた人生で、まさか市役所で
働くことになるとは思っていませんでした。
思いがけないことの連続な人生でしたが、
今ではこうして家族にも恵まれて仕事ができる。とても幸せに思います。
―――今が幸せなのは、ひろしさん自身がたくさんの決断をしてきて、
努力を重ねてきたからこそなのだなと話を聞いて感じました。
今回は、お忙しい中お時間とっていただきありがとうございました。―――
いえいえ、こちらこそ。うまく話せなくてすみませんでした。
また機会があれば、今度は飲みながらでも、ゆっくり話しましょう。
―――はい、ぜひ!本日は本当にありがとうございました。―――